エスペラントと猫語

 インターナショナルな言葉としての英語については様々な議論があります。確かに現在、英語を話さなければあらゆる分野で世界と渡り合ってゆけないのは確かです。何故日本人がこんなに英語を(あるいは英語以外の外国語でも)苦手とするのかよく分かりませんが、複数の言葉を話すのはこれからもう当たり前のことになって行くのだろうと思います。ネイティブのように話す必要は全然ないわけですから。フランス人も割合英語の苦手な人たちだと思っていますが、さすがに若い人たちはかなり話せるようになっています。昔、フランス人は分かっていてもわざと英語を話さないのだというような言われ方をする向きもありましたが、あれは間違っていると思っていました。フランス人は本当に英語が話せなかったのです。ある年代以上の人たちは、例外を別として皆恐ろしく下手でしたから。今の若いフランス人たちが、フランスでの英語の教育がなっていないと言って怒っているのを聞いたことがあります。

 ところで、インターナショナルな言葉が何故英語でなければいけないのか。歴史的な経緯は別として、人工的な国際語を作ろうという発想は出てきて当然でしょうね。エスペラント宮沢賢治も習得しようとしていたようです。ただ、エスペラントラテン語の系譜を引いているように感じますから、我々に対する壁はあまり変わらないかもしれません。それならいっそ猫語でも持ってきたらどうかな。あれならどこへ行っても同じようだし。(本当は結構違うのかもしれないけれど)

 最近、母国語ではない言葉で小説を書く人が多くなっていると感じますが、作品がわかりやすく、その分、清明なあるいは大きなものが見えやすくなるような気がすることがあります。自分の意識下の構造とそれを表現するときの言葉の構造の関係はどうなっているのでしょうか。猫語で書けるようになったらユニークなものが書けるかもしれない。(また)。