ユリシーズ(3)

 その書店の棚に所狭しと並んだ膨大な(その時はそう見えました。今は東京にもそれに似た書店がありますから、それほど驚きはしないのかも知れません)情報の中から、引きつけられたのは南米に関する本でした。

 ガイド、旅行記あまたある中、「South America Handbook」を手にとって、これがあれば自分一人で南米を歩ける!とひらめいたのです。何故、南米だったのかはよく分かりません。棚の本の背表紙の中から、何かが呼びかけた感じでした。今まで歩いてきたのと全く異なる、別の大陸、別の国々があるというショックのようなものでした。このハンドブックは当時、南米に関する最良のガイドとされていたらしいのですが、自分自身はそんなことは知りませんでした。
 買い求めたあと、何日も夢中でページを繰りました。ページとともに白い新しい道が立ち上がり、目の前にまだ見ぬ国々がその先々に透視図のように立っている、そんな感じでした。その年の夏休み、無謀にも一人で南米の横断に飛び出しました。何かそんなことをさせる力が、あの書店の棚にみなぎっていたように思います。
 
 今でも空想することがあります。架空の国の架空の旅行記やガイドブックが、あの薄暗い棚にひっそりと並んでいるのを。一冊一冊が、密かな声で呼びかけているのを。
                     (この項終わり)