義仲の鎧(2)

 木曽義仲が死んだのは寿永3年1月21日、入相の頃となっています。平家物語の一節、「木曽最期」の段に、
  木曽左馬頭(さまのかみ)、其日の装束には、赤地の錦の直垂(ひたた れ)に、唐綾をどしの鎧着て、鍬形うったる甲の緒しめ、・・・
と、見事な武者ぶりが描かれています。
 武将がその装束に気を配ったことは、平家物語に限らず戦記物に度々記述のあることで分かりますが、鎧の描写には「何々をどし」という言葉はよく出てきても、をどされる鎧の鋼板そのものについての記述は余り見たことがありません。
 「をどし」というのは数センチ角、厚み1ミリ程度の鋼板を鎖状に糸で繋げる技術・方法で、使用される糸の種類については「唐綾」とか「緋糸」「黒糸」「赤糸」「紺糸」等、沢山言及されています。色合いとしてよく目立ち、武将の好み・人柄を表すのに有効であったということでしょう。

 をどされる側の鋼板に関して、金属材料関係の学会で報告の出されたことがありました。(注)これは義仲の時代のものではなく、江戸時代の鎧についてでしたが、鋼板は約3cmx4cm、厚さ約1mmで、表を黒漆で塗った円形または楕円形の鋼線の鎖で板に空けた穴を通して繋いであるということです。鋼の内部組織を調べた結果、鋼板については折り返し鍛錬による縞状組織で、高炭素量の領域と低炭素量の領域の異なる層から成ること、加工によって細かく破壊された非金属介在物が縞状組織に平行に分布しており、その中に砂鉄を原料としたことに由来すると考えられるチタン成分が検出されることなどが報告されています。
 ここまで詳細に鎧の材料構成が調べられたことはこれまでにあったのでしょうか。貴重なデータだと思います。

  (注)北田、釘屋:日本金属学会09年春期講演会

     (この項続く)