道を尋ねること(3)

 さて、材料にこれからの道を尋ねられて、果たして適切な道を示せるかどうか。適切な観察・分析の方法をとらなければ道も示せないわけで、果たして材料は正しく道を尋ねる相手を選べたのかどうか。観察しているのが自分で良かったのかどうか。
 泉鏡花の作品に、子供が周り一面赤い躑躅の丘をで道に迷い、一匹のハンミョウ(みちおしえ)に導かれ、いつしか異世界に入ってゆく描写があります。
 『行く方も躑躅なり。来し方も躑躅なり。山土のいろもあかく見えたる、あまりのうつくしさに恐ろしくなりて、家路に帰らむと思ふ時、羽音たかく、虫のつと立ちて頬を掠めしが、・・・』
 この子供はハンミョウを殺してしまって、恐ろしい世界へ誘われてゆくのですが、果たして自分の観察は正しい道へ導くのか、みちおしえのように妖しい世界へ連れて行ってしまわないかどうか。
 以前、こんなことを言われたことがあります。
 電子顕微鏡で試料を観察している時、見ようと思っているものが見えないのは、
 あるのに見えないのか(技術的問題)、ないから見えないのか(本質的問題)、偽物を見て見えたと思っていることはないか(偽像の問題)。
 観察・分析の方法を間違えると、本来の姿とは違う姿が現れてきたりします。材料にとっては間違った道を教えられることになるでしょうか。
                  (この項終わり)