山姥の酒場

 テレビで酒場放浪記という番組を見ていて思い出したことがあります。スイスでのことで酒場とは少し違うかも知れませんが。
 ツェルマットという町からマッターホルンの麓までケーブルで上がった時のことです。着いたのは午後の最後のケーブルで、そのままケーブルでまた戻るのも残念だと思い、歩いてツェルマットまで降りることにしました。まだ陽は高く初めのうちは快適でしたが、急に陽が落ち始めて足を急がせなければならなくなってきました。山の日暮れが早いのは知っていましたが、それにしても見る見る足下が暗くなり、一時間ほどで道がやっと見える程度にまでなります。岩のごつごつした草原地帯のうちはまだ良かったのですが、それが終わり、森の中に道が入って行く時、まさに真っ暗で道自体が見えなくなってしまいました。
 ヨーロッパの民話などの中で、森の中に迷い込んで道を見失う話が良く出てきますが、まさにこういうことかと思います。本当に足下を一歩一歩確かめながら、まさかとは思うけれど狼など出てきはしまいななどとと考えながら、やはり一時間近くも歩き続けました。そして少し先の方に空の明るさが見え、やれやれと思った時です。森の出口に明かりが見えるのです。人の家があると思い本当にほっとしました。
 けれどそばまで行ってみると看板があって、何やらビールと食事を出す店のようでした。こんな人里離れたところになぜこんな店があるのか、ちらと考えましたがその時はとにかく疲れてお腹も空いていたので、思い切ってドアを開けました。すると出てきたのは高く曲がった鼻をした老婆でまさにおとぎ話に出てくる魔法使いにそっくりです。一瞬ギョツとしたものの、その老婆が静かな声でどうぞと言ってくれたので中へ入り、知っているだけのドイツ語の単語でビールとチーズとソーセージを頼みました。他に客は居ません。もう夜も八時過ぎくらいになっていました。ビールも食べ物もおいしく、生き返った心地でした。何事もなく支払いを済ませ店を出て、それからまた何時間か細い道を下り、ツェルマットの町の灯りが眼下に見えた時は、今度こそ本当にほっとしました。
 しかしいまだに、どうしてあそこに店があったのか不思議に思います。これには次の日の続きがあって、翌日、町で賑やかな市を歩いていた時、昨日の老婆が背に買い出しのような荷物を背負って人混みの中をすたすたと行ったのを見掛けたのです。だから別に怪しい人だったわけでもなかったわけですが、それにしても奇妙な経験だったと思っています。