爛柯(らんか)の話

 中国の説話の中に爛柯の話があります。民話のパターンの一つですが、木こりが山中で碁を打っている二人の仙人と会い、その一局を見ている間に自分の柯(斧の柄)が腐爛しているのに気づく。山を下りてみると百年ほどが経っていた、という話です。リップ・ヴァン・ウィンクルなど、似た話はほかの国にもたくさんあると思います。
 碁の勝負を見ている間に、いつのまにか世界が変わっている。あの震災の前と後とのことを考えると、何か似た思いを持ちます。その間に起きたことというのは、仙人が、あるいは何者かが打ち下ろした石の一手だったのか。山から下りてきた木こりは、茫然とかつてあったはずの世界を眺めている。ゆっくりと崩れてゆく原子炉は、木こりの斧の柄であるか。
 柯が腐爛して崩れてゆくのに、木こりの体に何の変化も現れないのは、彼が仙人から与えられた棗を食べたためということになっています。放射線が人体に与える影響は、細胞のがん化とともに細胞の老化であるという話を聞いたことがありますが、棗に相当するものはあるのでしょうか。
 また別に、こういう時間経過の不思議に関して思いをいたさない、それに関連した民話を持たない民族というのはあるのだろうかとも考えます。もしあったとしたら、その時間に対する概念はどういうものなのか、ちょっと知りたいように思います。