猫の恋

 先日、新聞にこんな句が載っていて笑ってしまいました。
   我が猫の 恋の相手に 落胆す
 どなたの句だったのか分かりませんが、我が家でも、飲み会の集まりでもひとしきり盛り上がりました。なんと親ばか、猫ばかというべきか。しかしよく分かります。我が家の猫は去勢オスですが、時々近所の雌猫を追いかけに行って、逃げられて戻ってきたりすると、
 「なんだ、振られたのか。」
と言ってみたりしますから。まあ、猫にとっては人間の美醜の判断とは別の価値観?があるのでしょうけれど。

 振られて帰ってくると、猫もなんだか落ち込んでいるようにも見えます。きまり悪げに布団をかぶって寝ていたりと。日高敏隆さんのエッセイに、食器棚へジャンプしようとして足を滑らせ、下へ落ちてしまった猫のことがありました。その猫は落ち込んで恥ずかしそうに顔をそむけ、そそくさと立ち去ったとあります。

 猫の恋からは離れますが、こんな話を覚えています。寺で飼われていた老猫が、うたた寝をしていて縁から下に落ち、「ほい、しまった。」と人間の言葉で言ったというのです。たまたま通りかかった和尚にそれを聞かれ、その猫は寺からいなくなったという話で、何だか茫洋とした春のさなかにはあるような話に思えてきます。

 もう一句、
   猫の妻 昨日の恋の 名残り見せ  綿利信子

幸福の国

 GNPよりも幸福度を目指すということでよく取り上げられるようになっているブータン。十年ほど前、主要道路も整備され始めたころに訪ねたことがあります。個人旅行は許可されていず、必ずガイドをつける必要があり(実際問題、それなしではまず無理)ましたが、非常に充実した旅でした。顔立ちだけでなく文化も日本に似たところがたくさんあること(そばや豆腐など)、中部の田舎の村の風景は黒沢の映画「夢」に出てきたラストの風景にそっくりなことなどがとても印象に残っています。マツタケも食べることができました。(醤油のなかったのが残念だったが)ただ、食事は一般に唐辛子を信じられぬほど大量に使い、何日かでかなり参りました。
 人々のたたずまいも含め非常に印象の良い国だったのですが、一つ二つ気づいたこと。最近の新聞等の報道でも見かけたのは、以前から隣のネパールからの移民、難民がかなりいて、差別をされた状態でいるようだということです。実際、道路工事現場などで働いているのはそのような人々だということを自分の目で見ました。小さい子供や女性を含めた大きな家族が、ほこりまみれで働き、希望のない目で我々を見やりました。また、首都のティンプーでマーケットにバングラデシュからの品物が安く入ってきているのを確認しました。地理的に近く流通が容易なのだと思いましたが、中国のものではないのだということが当時としてはちょっと意外に感じたものです。政治的にも中国とは少し距離を置きたいということだったかもしれません。現在ではバングラデシュは日本企業の次の進出先に考えられているようで、波がここまで進んできたかという感じです。
 ブータンは山岳国ですから川の水量が豊富で、それをエネルギー資源として活用できるようです。そのあたりにこれからの生きる道があるのかもしれません。やはり十年以上前、日本のJICAで途上国の研修生たちを教える機会があり、その時にブータンの人が一人だけ来ていたことがありました。しかしこの国に果たして日本のような工学がどこまで必要なのだろうかと考えてしまったことを記憶しています。
 幸福の国がどのようになってゆくのか心配でもあり、また興味もあります。

帰林鳥語

 日の沈む直前、五階建ての銀行のビルの屋上に、ムクドリがたくさん降りてきているのが見えます。その数はあとからあとから増えてゆきます。向かいの高いビルから見下ろして見ているので、鳴き交わす声は聞こえませんが、相当にぎやかなことと思われます。一度降り立つと余りその場所から動かないように見えるけれども、何かのきっかけがあると一斉に飛び立ちます。どうも彼らには好みの屋根があるらしく、すぐ隣のビルの屋根には集まっていません。やがて日の暮れとともに、彼らは少しずついなくなりました。近くの公園の林に帰るのか、あるいはビルの屋根の隙間などに寝る場所があるのかもしれません。
 それをずっと見ているこちらも、すべての仕事が終わる少し前の、ムクドリのような立場。ずっと以前、中国文学の泰斗である吉川幸次郎先生が、大学を辞められるときにあるエッセイの中で「帰林鳥語」という言葉を使われたことを思い出しました。唐詩の中の言葉とのことで、日暮れに林に寝に帰る前の鳥たちがおしゃべりをしている様子の意味だと言われていました。吉川先生はご自分の立場を鳥になぞらえて、自分も少しエッセイの中でおしゃべりをしてみようかと書かれていたように記憶しています。
 それから何十年か経ち、今はこちらがそのような立場に近づいていることが、何か不思議なことのように思えますが、帰林鳥語という言葉はなかなか味のある言葉ではないでしょうか。

マンガの受容

 バルセロナで「セーラームーン」の看板を見たのはもうずいぶん前のことだし、「クレヨンしんちゃん」のTシャツをやはりスペインの小さな男の子が着ているのを見たのも同じ頃でした。こんなところまでと驚いたのがウソのようで、現在ではヨーロッパで出会う若い人も、日本に来るヨーロッパの学生たちも、「ワンピース」「ナルト」やジブリのアニメのことを必ずと言っていいほど語ります。必ずというのは間違いで、ある種の若い人というほうが正確なのかもしれませんが、ただ確実にその割合は広がっていると感じます。
 以前は小さい子供の層だけのものであったのが、受容の年代を拡大してきたという印象です。同じように以前日本で過ごしていたヨーロッパの人でも、ある年代以上の人たちは全く受け付けていない、あんなものという感じ、ということも経験しました。マンガの受容の仕方がどこかで劇的に変わったのではないかと思われます。先ほどのスペインでの経験とほぼ同じ時期に、パリで「失われた時を求めて」のマンガ版(原作にほぼ忠実)を見たことがありますから、その頃から流れはあったのでしょうか。
 ラオスの南部の小さな町で、小学低学年の子供たちが「キティちゃん」のランドセルを嬉々として背負っているのを見て、いつか同じような受容の変動が起きるのか、あるいはもうすでに底流はあるのかと思ったりします。
 しかし、文化というものは輸出しようと思って輸出できるものなのかと考えます。官が絡んで行動をすると、どこかにいびつなものが生じるのではないかと。

ブランクーシと無限の柱(2)

 無限の柱の立つ公園は、街の中心から少し外れた公園に立っています。パリに倣って、寺院をはさんでキスの石門と無限の柱とが一直線上に並ぶように設計されたといわれています。確かにその通りなのですが、門から柱に至る道は途中から閑静な住宅地となり、しかもその途中を鉄道線路が直角に横切っていて、とてもパリの都市計画と比べるわけにはゆきません。それでも何となくのどかな街の様子は好ましく、公園に行くまでの道の至る所に水道の蛇口が立っていて、市民が自由に水を飲んでいました。ヨーロッパでこういう光景は珍しいのではないかと思います。ここの水はカルパチアの山系からの水で、きれいで有名なのだと人々は自慢をしていました。
 さて、無限の柱。これはそのためだけに造られた公園の真ん中にそそり立ち、高さは想像以上で、人が下に立ってもぽつんと小さく見えるだけです。空からの光を受けて金色に輝いている姿は、気持ちをはるか上の方向へ導くような感じがします。ところで、マラムレシュの田舎の木の教会を訪れた時、内部の二階へ上がる古い木の階段が、長い年月使い古され丸くすり減った様子を見て、これは無限の柱の作品を生み出すにあたってブランクーシにに啓示を与えたのではないかと一瞬考えました。田舎の村に育った彼が、このような形を無意識のうちにでも取り込んでいたのではないかと。
 田舎の村を歩いた時に撮った写真を現像してみたら、畑の中に点々と大きな積み藁のあるのが映っていて、ある絵描きさんがこういう形の積み藁はもうほとんど目にすることがないのだと教えてくれました。そう言われると印象派の絵の中に出てくる積み藁の形で、現在我々がよく目にする丸く巻き取った形とは違っています。こんなところからも、この国が古い形を連綿と残しているのだということが見て取れます。
 トゥルグ・ジウの街に建つブランクーシの像は、ハンマーを片手に彫りの深いいかにも朴訥な表情で、やはり半ば土の匂いを感じさせます。

ブランクーシと無限の柱(1)

 夏にルーマニアを歩いた時、彫刻家ブランクーシにゆかりの街、トゥルグ・ジウに寄りました。寄ると言っても首都のブカレストからは列車で8時間近く、車窓風景は北部の農村地帯とは少し異なり、緩やかなトウモロコシやヒマワリ畑、牧草地の間に、工業地帯らしきところが散在し、大きな発電所もいくつか見えました。トゥルグ・ジウは決して小さい街ではなく、トロリーバスが走っているくらいですから、このあたりの中心の役割を果たしているのだと感じます。
 ブランクーシの生まれた家はこの街から30キロほどのホビタという村にあり、その生家は保存されています。トゥルグ・ジウには無限の柱、キスの門、静かのテーブルという作品が公園に配置され、街なかには彼の銅像が立っています。ブランクーシという名前のホテルさえありました。
 公園に案内所があり、無限の柱の立っている場所を尋ねたら、わざわざ一緒に数分歩いて、その先の道筋を教えてくれました。案内所自体、数年前に出来たばかりということでしたが、2年ほど前からそこで働いているというその女性は、日本人に会ったのは初めてだと言っていました。ブランクーシの作品のためにこの街を訪れる日本人は結構いるはずですからそんなはずはないのですが、彼女がたまたまそうだったということかもしれません。
 昼に街のレストランに入って、メニューを読むのに苦労していたら、隣のテーブルにいた人が助けてくれ、今日はこのランチを頼むのが良いと教えてくれました。その人も日本人を見たのは初めてだと言っていましたが、ブランクーシを見るために来たというとうなずいて、ここの人々の誇りになっていることが感じられました。

                   (この項続く)

ルーマニアについて(3)

 ルーマニアについて、もう少し書きます。
 大統領であったチャウシェスクが追放・処刑されてからずいぶん経ちますが、国の至る所にその遺産というべきものがまだまだ残っているのが見られます。首都のブカレストにある「国民の館」という巨大な建築物もそのひとつですが、そのほかにも列車で移動すると駅の近くや沿線に、大きな工場が朽ち果てたまま放置されているのがしばしば見られました。しかもその近くに別の新しい工場らしきものが建てられたりしているので、チャウシェスク時代の建物を再利用するのを嫌悪しているのではないかと思われました。もう一つ、北部のシゲット・マルマツェイという町に、チャウシェスクおよびそれ以前の共産主義時代に捕えられ収容されていた収容所が残されています。世話をしてくれたガイドさんがわざわざここへ連れてきてくれました。彼はほかの観光地よりも、悲惨な歴史のここを見せたかったのだなと感じたことです。
 また、歴史といえば、途中で出会って話をしたルーマニアの人が、隣国のハンガリーをあまり快く思っていないことの多いのに気づかされました。常に戦乱、占領等が続いた経緯があるためでしょうか。

 十数年前にルーマニアへ行った人の話では、ストリートチルドレンが多く、悲惨なイメージを持ったそうです。つい七、八年前でもそのような印象を語った人がいました。しかし今回の旅行ではそのような情景に全く会わず、全体として子供たちの表情が明るく思えました。その国の子供の表情を見ると、国の未来がある程度分かると言います。今回もこちらの目に触れない部分がたくさんあることとは思いますが、この国が決して暗くないことは言えるのではないかと思えます。